「サピエンス全史」で有名なユヴァル・ノア・ハラリ氏の近著「21Lessons」
人類が現在直面している21のテーマについて書かれています。
とても読み応えのある本です。ハラリ氏の視点は読む人に様々な思考を促します。
今回はその7「ナショナリズム」からの思考です。
●国民国家は普遍的なものではない。人類の歴史の中の一つのバージョンにすぎない
ハラリ氏は特に日本ついて言及していませんが、現在日本の国籍を持っているほとんどの人は、自分が日本人だと思っていると思います。
でも明治時代以前は、たいていは日本人だという意識は希薄だったでしょう。どこの集落の住人とか、どこの村の住人とか、藩の人という意識はあったでしょうけれど、日本人だと意識していた人はわずかだったでしょう。
現在の日本人が日本人だと意識はするが、地球人だとあまり意識しないのといっしょかもしれません。
〇〇人とか〇〇国人という意識も、人類の長い歴史から考えると特に普遍的なものではないようです。
ハラリ氏によれば
(引用開始)
今日の国民国家は、人間の生態の不変の要素でもないし、人間の心理の避けられないような産物でもない。5000年前には、イタリア人もロシア人もトルコ人もいなかった。たしかに人間は根っからの社会的動物で、遺伝子には集団への忠誠心が刻みつけられている。とはいえ人類は何百年にわたって、大きな国民国家ではなく小さな親密なコミュニティで暮らしてきた。
(中略)
国民国家は、サピエンスのメニューに載っている選択肢の一つにすぎない。他の選択肢としては、部族、都市国家、帝国、教会、企業などがある。
(引用終了)
まず確認が必要なのが、人類の長い歴史から考えると日本人とかイタリア人とかロシア人とかいった国民国家を基盤とするアイデンティテーも不変的なものではなく人類の歴史の中での一つのバージョンに過ぎないということです。
●民主主義はナショナリズムを抜きにしては機能できない
この本の中で、ナショナリズムについての定義は見当たらないが、人が国家(や民族)に帰属すると感じたり、他のものより国家を重要視するような考え方や意識のことをナショナリズムと呼んでいるようだ。もっと簡単に言うと
「ナショナリズムとは自分のいる国民国家を重要と感じる意識」といったところでしょう。
日本においては、ナショナリズムという言葉は、狂信的な排外主義や行き過ぎた愛国心といったネガティブなイメージがあるかもしれません。
でもハラリ氏によれば、
民主主義はナショナリズムを抜きにしてはきちんと機能できないというのです。

(引用開始)
巨大な制度は大勢の人々の忠誠心なしには機能できないし、人間の共感の輪を広げることに利点があるのは間違いない。穏やかな形の愛国心は、人間が生み出したもののうちでも、とりわけ慈善の心に富んでいる。
自分の国は唯一無二である、忠誠を尽くしてしかるべきである、その成員に対して特別の義務があると信じていればこそ、私は他者を気遣い、彼らのために犠牲を払う気になる。
ナショナリズムがなくなれば、私たちはみな自由主義の楽園で暮らせるなどと想像するのは、危険な過ちだ。ナショナリズムなしでは、部族社会独特の混乱状態の中で暮らす羽目になる可能性の方が高い。
特に民主主義はナショナリズムを抜きにしてきちんと機能できない。
人々はたいてい、当事者全員が同じ国家への忠誠心を共有しているときだけ、民主的な選挙の結果を進んで受け容れるものだ。スウェーデンやドイツやスイスのような、平和で繁栄している自由主義の国はみな、ナショナリズムの強固な感覚を享受している。
(引用終了)
このように、ナショナリズムは民主主義を機能させるために不可欠。
ナショナリズムがあって、国民がそれを尊重しているからこそ国家制度や民主主義が機能しているというわけだ。
現在、国民国家制度が成り立っているので国民医療などの保険や安全、福祉などの制度が機能している。その仕組みのおかげで、国内の遠く離れた見ず知らずの人が相互に恩恵を与えているといえる。
歴史上ほとんどの期間、身近な人同士で助け合っていたのだが、国内の見ず知らずの人との助け合いの
人類が現在直面している21のテーマについて書かれています。
とても読み応えのある本です。ハラリ氏の視点は読む人に様々な思考を促します。
今回はその7「ナショナリズム」からの思考です。
●国民国家は普遍的なものではない。人類の歴史の中の一つのバージョンにすぎない
ハラリ氏は特に日本ついて言及していませんが、現在日本の国籍を持っているほとんどの人は、自分が日本人だと思っていると思います。
でも明治時代以前は、たいていは日本人だという意識は希薄だったでしょう。どこの集落の住人とか、どこの村の住人とか、藩の人という意識はあったでしょうけれど、日本人だと意識していた人はわずかだったでしょう。
現在の日本人が日本人だと意識はするが、地球人だとあまり意識しないのといっしょかもしれません。
〇〇人とか〇〇国人という意識も、人類の長い歴史から考えると特に普遍的なものではないようです。
ハラリ氏によれば
(引用開始)
今日の国民国家は、人間の生態の不変の要素でもないし、人間の心理の避けられないような産物でもない。5000年前には、イタリア人もロシア人もトルコ人もいなかった。たしかに人間は根っからの社会的動物で、遺伝子には集団への忠誠心が刻みつけられている。とはいえ人類は何百年にわたって、大きな国民国家ではなく小さな親密なコミュニティで暮らしてきた。
(中略)
国民国家は、サピエンスのメニューに載っている選択肢の一つにすぎない。他の選択肢としては、部族、都市国家、帝国、教会、企業などがある。
(引用終了)
まず確認が必要なのが、人類の長い歴史から考えると日本人とかイタリア人とかロシア人とかいった国民国家を基盤とするアイデンティテーも不変的なものではなく人類の歴史の中での一つのバージョンに過ぎないということです。
●民主主義はナショナリズムを抜きにしては機能できない
この本の中で、ナショナリズムについての定義は見当たらないが、人が国家(や民族)に帰属すると感じたり、他のものより国家を重要視するような考え方や意識のことをナショナリズムと呼んでいるようだ。もっと簡単に言うと
「ナショナリズムとは自分のいる国民国家を重要と感じる意識」といったところでしょう。
日本においては、ナショナリズムという言葉は、狂信的な排外主義や行き過ぎた愛国心といったネガティブなイメージがあるかもしれません。
でもハラリ氏によれば、
民主主義はナショナリズムを抜きにしてはきちんと機能できないというのです。

(引用開始)
巨大な制度は大勢の人々の忠誠心なしには機能できないし、人間の共感の輪を広げることに利点があるのは間違いない。穏やかな形の愛国心は、人間が生み出したもののうちでも、とりわけ慈善の心に富んでいる。
自分の国は唯一無二である、忠誠を尽くしてしかるべきである、その成員に対して特別の義務があると信じていればこそ、私は他者を気遣い、彼らのために犠牲を払う気になる。
ナショナリズムがなくなれば、私たちはみな自由主義の楽園で暮らせるなどと想像するのは、危険な過ちだ。ナショナリズムなしでは、部族社会独特の混乱状態の中で暮らす羽目になる可能性の方が高い。
特に民主主義はナショナリズムを抜きにしてきちんと機能できない。
人々はたいてい、当事者全員が同じ国家への忠誠心を共有しているときだけ、民主的な選挙の結果を進んで受け容れるものだ。スウェーデンやドイツやスイスのような、平和で繁栄している自由主義の国はみな、ナショナリズムの強固な感覚を享受している。
(引用終了)
このように、ナショナリズムは民主主義を機能させるために不可欠。
ナショナリズムがあって、国民がそれを尊重しているからこそ国家制度や民主主義が機能しているというわけだ。
現在、国民国家制度が成り立っているので国民医療などの保険や安全、福祉などの制度が機能している。その仕組みのおかげで、国内の遠く離れた見ず知らずの人が相互に恩恵を与えているといえる。
歴史上ほとんどの期間、身近な人同士で助け合っていたのだが、国内の見ず知らずの人との助け合いの
仕組みが作られたのは良く考えると画期的なことなのだ。
一方、ナショナリズムが行きすぎると、他国との間の暴力的な争いの温床になり、結果として戦争につながってきたわけです。
戦後の日本では、明治以降の国家に対する忠誠心があまりに極端になり過ぎた、第二次世界大戦の反省もありナショナリズムが国家制度や民主主義が機能するために重要であるということは、あまり強調されなかったわけです。
でも、適度なナショナリズムが重要なことは言われて見ればあたりまえのことです。

●ナショナリズムを優先すると人類の共通の敵にはうまく対処できない
ハラリ氏は、現在の人類の共通の敵は3つあるという。
1.核戦争
2.気候変動
3.技術的破壊
1.の核戦争については特に説明を要しないだろう。
核戦争が発生したら人類の破滅につながることは異存がないだろう。
2.の気候変動は、地球の温暖化等の気候の変化についてだ。
3.の技術的破壊は、情報テクノロジーと遺伝子工学などのバイオテクノロジーの発達による人間や社会の根本的な変化のことだ
ハラリ氏によれば、適度なナショナリズムは国内の問題に対処するには必要であるがそれを優先させたら人類の共通の敵、核戦争。気候変動。技術的破壊にはうまく対処できないという。
自国の事を最優先したら、核戦争や気候変動に対応できないのは想像できるだろう。情報テクノロジーや遺伝子工学の技術が少数の人や企業に独占されることについては一国では対処不可能な問題でしょう。
たとえば多国籍企業による情報テクノロジーの独占は一国では対処不可能。また、遺伝子操作についての規制も一国が実施しても他の国で実現されたら意味がありません。
国家という枠組みは、3つの人類の敵に対処していくにはもう適切でなくなっている
ということなのです。

●3つの人類の敵に対処していく方法
その前提で、ハラリ氏は、それに対処していく方法について次のように提言しています。
政治体制については次のように述べています
(引用開始)
唯一の現実的解決法は、政治をグローバル化することだ。(中略)
これは「グルーバル政府」の設立の呼びかけではない。グローバル政府の設立は、不確かで非現実的ビジョンだ。政治のグローバル化というのはむしろ、それぞれの国の中の政治ダイナミズムが、さらには都市の中の政治ダイナミズムが、グローバルな問題や利益をもっとずっと重視すべきことを意味する。
(引用終了)
グローバル政府を設立するということではなく、国や都市といった現在の政治決定の主体がよりグローバルな問題やグローバルの利益を重視して意思決定をすべきであるということだ。
個人については次のように述べられています。
(引用開始)
もし私たちが生き延びて栄えたければ、そのような局地的な忠誠心を、グローバルコミュニティに対する相応の義務で補ってやる以外に、人類にはほとんど選択肢がない。
人は家族、近隣の人々、同業の仲間、国家に同時に忠実であるべきだ。それならば、それに人類と地球を加えてもいいではないか?
(引用終了)
我々は、家族の一人、〇〇町の住民、〇〇社で働いている、〇〇国民といったアイデンティティを持っている。そこに、人類、地球を加えてみたらということなのです。
もともと〇〇国民といったアイデンティティが近代以前には希薄だったわけですが、現在は世界中の多くの人たちが〇〇国民というアイデンティティを持つに至っているわけです。
そこに地球というアイデンティティが加わることは荒唐無稽な話しではありません。
もちろん、〇〇国民というアイデンティティーを捨てるということを意味していないというわけです。

●グローバリストであることとナショナリストであることは矛盾しない
そしてここからが、なるほどと思う点です。
(引用開始)
グローバリズムと愛国心との間には、何の矛盾もない。なぜなら愛国心とは、外国人を憎むことではないからだ。愛国心は同国人の面倒を見ることを意味する。そして二十一世紀には、同国人の
安全と繁栄を守るためには、外国人と協力しなければならない。だから良きナショナリストは今やグローバリストであるべきなのだ。
(引用終了)
グローバリストとナショナリストが対立項で、描かれるケースもありますが、
ハラリ氏によれば、
グローバリストである事とナショナリストであることは矛盾しないというのだ。なぜなら、良きナショナリストであるためには、同時に世界の事も優先するグローパリストであることが必要なのだ。
なぜかというと、現在ではグローバルな問題にも対処していかないと同国人の安全と繁栄を守ることができないからだ。
簡単に言ったら、これからの時代は
・自分の国の事を考えるなら、同じように世界の事も考える必要があるよね。
・世界的な問題に対処していくためには、国という枠組みや適度なナショナリズムは当分必要だよね。
・また、個人が、家族、近隣の人々、や自分の住んでいる国を重視するのと同じように、
そこに世界も加えたほうがいいよね。
ということなのです。
言われてみれば、そりゃそうだ。という話しでした。
●ハラリ氏の話をコーチングにおけるゴール設定の参考にしてみる
苫米地コーチングでは、自分のゴールを設定する際のポイントをいくつかあげていますが、その中の2つに次のポイントがあります。
①抽象度を上げて考えて見る。
②ゴールは複数設定する
①の抽象度を上げて考えて見るです。
抽象度についてはこちらの記事。
http://okinaebisu.livedoor.blog/archives/17190162.html
抽象度を上げるとは、ざっくり言ったらアリさんの視点からぐーっと上空に上がって地球全体を俯瞰してみるようなこと。あるいは、今現在から100年前1000年前、100年後、1000年後といった時間の枠を
大きくとって考えてみるといった視点の取り方のことです。
ハラリ氏のここまでのお話は、抽象度を上げて考えてみることの大きな参考になります。人類とか世界という大きな視点で考えてみると、どうなのだろうかという事です。
②ゴールは複数設定するです。
ゴールはいくつ設定してもよいし、随時変更更新していってよいわけです。たとえは゛職業の事、ファイナンスのこと、趣味のこと、家庭内の事、地域社会への貢献、個人的な事、自分が住む社会の事といった具合です。
ハラリ氏は、個人のゴールについての話はしていませんが、個人が重要視するものの一つとして
人類と地球を加えて見たらどうだろう。と言っているわけですね。
これはゴール設定上でとても参考になりますね。
人類と地球の事をゴールに加えたとしても、自分の事、家庭の事、地域社会の事、自分が暮らす国という社会の事、世界の事とか、上手にバランスを取ることも大切ですね。
twitterも見てね
https://twitter.com/kubo8tooru

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一方、ナショナリズムが行きすぎると、他国との間の暴力的な争いの温床になり、結果として戦争につながってきたわけです。
戦後の日本では、明治以降の国家に対する忠誠心があまりに極端になり過ぎた、第二次世界大戦の反省もありナショナリズムが国家制度や民主主義が機能するために重要であるということは、あまり強調されなかったわけです。
でも、適度なナショナリズムが重要なことは言われて見ればあたりまえのことです。

●ナショナリズムを優先すると人類の共通の敵にはうまく対処できない
ハラリ氏は、現在の人類の共通の敵は3つあるという。
1.核戦争
2.気候変動
3.技術的破壊
1.の核戦争については特に説明を要しないだろう。
核戦争が発生したら人類の破滅につながることは異存がないだろう。
2.の気候変動は、地球の温暖化等の気候の変化についてだ。
3.の技術的破壊は、情報テクノロジーと遺伝子工学などのバイオテクノロジーの発達による人間や社会の根本的な変化のことだ
ハラリ氏によれば、適度なナショナリズムは国内の問題に対処するには必要であるがそれを優先させたら人類の共通の敵、核戦争。気候変動。技術的破壊にはうまく対処できないという。
自国の事を最優先したら、核戦争や気候変動に対応できないのは想像できるだろう。情報テクノロジーや遺伝子工学の技術が少数の人や企業に独占されることについては一国では対処不可能な問題でしょう。
たとえば多国籍企業による情報テクノロジーの独占は一国では対処不可能。また、遺伝子操作についての規制も一国が実施しても他の国で実現されたら意味がありません。
国家という枠組みは、3つの人類の敵に対処していくにはもう適切でなくなっている
ということなのです。

●3つの人類の敵に対処していく方法
その前提で、ハラリ氏は、それに対処していく方法について次のように提言しています。
政治体制については次のように述べています
(引用開始)
唯一の現実的解決法は、政治をグローバル化することだ。(中略)
これは「グルーバル政府」の設立の呼びかけではない。グローバル政府の設立は、不確かで非現実的ビジョンだ。政治のグローバル化というのはむしろ、それぞれの国の中の政治ダイナミズムが、さらには都市の中の政治ダイナミズムが、グローバルな問題や利益をもっとずっと重視すべきことを意味する。
(引用終了)
グローバル政府を設立するということではなく、国や都市といった現在の政治決定の主体がよりグローバルな問題やグローバルの利益を重視して意思決定をすべきであるということだ。
個人については次のように述べられています。
(引用開始)
もし私たちが生き延びて栄えたければ、そのような局地的な忠誠心を、グローバルコミュニティに対する相応の義務で補ってやる以外に、人類にはほとんど選択肢がない。
人は家族、近隣の人々、同業の仲間、国家に同時に忠実であるべきだ。それならば、それに人類と地球を加えてもいいではないか?
(引用終了)
我々は、家族の一人、〇〇町の住民、〇〇社で働いている、〇〇国民といったアイデンティティを持っている。そこに、人類、地球を加えてみたらということなのです。
もともと〇〇国民といったアイデンティティが近代以前には希薄だったわけですが、現在は世界中の多くの人たちが〇〇国民というアイデンティティを持つに至っているわけです。
そこに地球というアイデンティティが加わることは荒唐無稽な話しではありません。
もちろん、〇〇国民というアイデンティティーを捨てるということを意味していないというわけです。

●グローバリストであることとナショナリストであることは矛盾しない
そしてここからが、なるほどと思う点です。
(引用開始)
グローバリズムと愛国心との間には、何の矛盾もない。なぜなら愛国心とは、外国人を憎むことではないからだ。愛国心は同国人の面倒を見ることを意味する。そして二十一世紀には、同国人の
安全と繁栄を守るためには、外国人と協力しなければならない。だから良きナショナリストは今やグローバリストであるべきなのだ。
(引用終了)
グローバリストとナショナリストが対立項で、描かれるケースもありますが、
ハラリ氏によれば、
グローバリストである事とナショナリストであることは矛盾しないというのだ。なぜなら、良きナショナリストであるためには、同時に世界の事も優先するグローパリストであることが必要なのだ。
なぜかというと、現在ではグローバルな問題にも対処していかないと同国人の安全と繁栄を守ることができないからだ。
簡単に言ったら、これからの時代は
・自分の国の事を考えるなら、同じように世界の事も考える必要があるよね。
・世界的な問題に対処していくためには、国という枠組みや適度なナショナリズムは当分必要だよね。
・また、個人が、家族、近隣の人々、や自分の住んでいる国を重視するのと同じように、
そこに世界も加えたほうがいいよね。
ということなのです。
言われてみれば、そりゃそうだ。という話しでした。
●ハラリ氏の話をコーチングにおけるゴール設定の参考にしてみる
苫米地コーチングでは、自分のゴールを設定する際のポイントをいくつかあげていますが、その中の2つに次のポイントがあります。
①抽象度を上げて考えて見る。
②ゴールは複数設定する
①の抽象度を上げて考えて見るです。
抽象度についてはこちらの記事。
http://okinaebisu.livedoor.blog/archives/17190162.html
抽象度を上げるとは、ざっくり言ったらアリさんの視点からぐーっと上空に上がって地球全体を俯瞰してみるようなこと。あるいは、今現在から100年前1000年前、100年後、1000年後といった時間の枠を
大きくとって考えてみるといった視点の取り方のことです。
ハラリ氏のここまでのお話は、抽象度を上げて考えてみることの大きな参考になります。人類とか世界という大きな視点で考えてみると、どうなのだろうかという事です。
②ゴールは複数設定するです。
ゴールはいくつ設定してもよいし、随時変更更新していってよいわけです。たとえは゛職業の事、ファイナンスのこと、趣味のこと、家庭内の事、地域社会への貢献、個人的な事、自分が住む社会の事といった具合です。
ハラリ氏は、個人のゴールについての話はしていませんが、個人が重要視するものの一つとして
人類と地球を加えて見たらどうだろう。と言っているわけですね。
これはゴール設定上でとても参考になりますね。
人類と地球の事をゴールに加えたとしても、自分の事、家庭の事、地域社会の事、自分が暮らす国という社会の事、世界の事とか、上手にバランスを取ることも大切ですね。
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