「しつけはいらない」と苫米地英人博士は述べています。
今の日本では「しつけはいらない」と言う人は少数派だと思いますが「しつけはいる。いらない」は非常に様々な意見があり大きなテーマなので、苫米地博士がどのように述べられているか。

また実際自分でやってみてどうなのだろうかというところを書いていきたいと思います。
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「脳の力を無限に引き出す幼児教育」の中で苫米地博士は次のように述べられています。

(引用開始)
「実は子育てに、しつけは必要ありません。普通にしつけをしようとすると、ほとんどの場合が徳育になってしまいます。徳育が不必要なのはすでにお話ししました。だったら、はじめから「しつけ」なんてしなければいいのです。

子どもの教育に必要なのは知育のみです。つまり、一般的に「しつけ」として行っていることを、すべて「知育」として教えていけばよいのです」
(引用終了)

のように、苫米地博士は、明確にしつけは不要。しつけとして行っている
ことは「知育」として教えていくことが重要と述べられています。


しつけとは、子供の社会性を育むために、特定の価値観や、行為を押し付けること。社会性の中には、言葉遣い、立ち振る舞い、あいさつの仕方といった日常生活の中での習慣化された行動様式も含まれています。

知育とは、知識を習得して知能を高めるための教育のことです。

しつけを知育として教えた場合の例として、いくつか挙げられています。その一つとして、あいさつについて

●しつけでは、「人にあったらあいさつしなさい」

●知育では、「人と人の間には社会があってね、誰かと道で会ったときにあいさつを交わすことで同じ社会の一員だということを確認しているんだよ。それに、あいさつをすると相手が喜んでくれるから、あいさつってよくない」

と言い換えることができるということです。

親の立場から考えたら、「人にあったらあいさつしなさい」を「しつけ」として子どもに教えた方が、圧倒的に簡単。手間も時間もかかりません。

しつけでは、「人にあったらあいさつしなさい」の根拠は「あたりまえだから」「礼儀だから」「常識だから」「親が言っているから」「子どもがつべこべ言う事ではないから」といったことになるでしょう。子どもになぜと聞かれたら、そう答えるでしょう。

まさに、理由は関係ないけれど、そういうものだからそれに従うように。ということです。

知育では、親が「人にあったらあいさつをした方がよい」理由や論理をしっかりと子どもに教えてあげる必要があります。それを聞いて子供が「なんで」とか「なぜ」と疑問をもって聞いてきたときは、子どもと一緒に考えて、子供が納得する論理を考え出せるように導いてあげる必要があります。

これをするには、まず親が、子供に説明ができるような知識や論理力が必要でしょう子どものなぜに対応する、根気も必要です。また子供が納得する答えを見つけるのに時間もかかるでしょう。そう考えると、知育というのは、しつけより圧倒的に、手間も時間もかかり大変です。

「あたりまえだから」とか「つべこべ言わず」と言って教えたほうが、説明したり子どもに考えさせたりするより、親から見たら圧倒的に簡単で、短期的には効果があるように見えます。

しかし苫米地博士は
(引用開始)
しつけは、一方的に特定の価値観、行為を押し付けることです。それは盲目的にすでにある価値観や考え方に従えと子供に教えているのと同じです。
子供のためと思っているかもしれませんが、結果的に子供の自由を奪い、考える力を失わせていることになります。(中略)

何事も自分自身で考えて、自分の行動は自分の意思で選択できるように育ててあげる事が、結果的に子供のためになるのです。」
(引用終了)

と 述べられています。

子供が生まれてしばらくして、苫米地博士の本に書いてあることを読んで、なるほどそうか。そういうことなら、「しつけ」でなく「知育」をやろうと思い妻といっしょにやってみました。

この後は、続「しつけはいらない!」のか に続きます。
http://okinaebisu.livedoor.blog/archives/17852470.html



0歳から5歳の幼児教育
苫米地英人
コグニティブリサーチラボ株式会社